2016年06月27日

100 第九十七話



金沢北署の正面入口を駆け足で通過して階段を登った先に「金沢銀行殺人事件捜査本部」が設置されている大会議室があった。彼はその扉を勢い良く開いた。
「あっ!!課長!!」
本部に詰めている所轄捜査員たちが一斉に岡田の方を見た。
「どうなってんだ。」
「…どうもこうも。こっちが聞きたいくらいですよ。課長っていきなり姿消すんですから。」
「あ?お前ら署長から何も聞いとらんがか。」
「え?署長ですか?」
「おう。」
岡田は部屋の様子を見回した。捜査本部長である若林が座るはずの席は空席である。
「おい。署長は。」
「え…。」
「署長はどこやって言っとるんや。」
「あの…。」
捜査員は口ごもった。
岡田は若林の席のそばの、県警本部の捜査一課の捜査員の前に立った。彼は苦虫を噛み潰したような表情である。
「若林署長はいずこに。」
本部の人間は頭をふる。
「はぁ!?」
「だら。声でけぇって…。何か分からんけどお前がおらんくなってから、ここよう空けとるんや。」
「え?それって…。」
「指揮官不在が頻発。現場は混乱しとる。」
確かに周囲には捜査員の殆どが集結し、机の上に資料を並べて何かを討議している。普通ならその殆どが出払って事件現場で聞きこみに奔走しているはずなのにである。
「ほんなんあんたら本部の方でうまいこと指揮すればいいじゃないですか。ってかあんたらはそのためにおるんでしょ。」
「何言っとれんて。人間の配置は変わっとらんげんぞ。あくまでもお前が主任捜査員のまんまや。ほんねんに本部の方でちゃちゃいれれんわいや。金沢銀行殺人事件の捜査本部長は若林署長。わしらはあのお方の指示を受けて動く。そんなこと勝手にやったら越権行為やがいや。」
「…そうなんですか?」
「はぁ?そうなんですかって…お前…。お前こそ何ねんて。急に捜査本部から消えて何しとったんや。こっちは本部との調整でたいへんやってんぞ。」
岡田は本部捜査員にむしろ叱られた。
「あの…いや…。」
「こっそりお前ん家に電話しても奥さんは知らぬ存ぜぬ。お前の家もどうなっとれんて。」
「んなら直接俺の携帯に電話くれればいいがじゃないですか。」
「駄目やって言われとるもん。しゃあねぇがいや。」
「え?」
「署長にお前と直接連絡取ることは相成らんってお達しや。」
岡田は意味がわからなかった。
「若林署長は察庁お気に入りのキャリアや。わしらノンキャリがあの人すっ飛ばして現場引っ掻き回せるはずねぇやろいや。ったく…。察庁お気に入りかなんか知らんけど現場引っ掻き回すことだけは勘弁してくれま。」
「いや…その…。」
「姿くらましとってんから、よっぽど旨いネタ仕込んできたんやろうな。」
本部捜査員は岡田の背中をその分厚い掌で叩いた。

夜の帳が下りた県警本部の通信指令室にひとりの男が現れた。
「あ!最上本部長!。」
総合司令台の係官が驚いた様子で立ち上がり、彼に敬礼した。
「いいよ。座っていなさい。」
そう言って最上は隣の空席に腰を掛けた。物腰柔らかな言葉を発する彼の姿は大柄で恰幅がよく、まるで帝国陸軍の大山巌を彷彿させる堂々たるものであった。
「どうされたんですか。」
「いやね。ちょっとね。」
これだけ言って彼は前方にある巨大なカーロケーターシステムの画面を眺めた。
110番通報を示す青のランプが点灯した。
「はい110番。I県警です。事件ですか事故ですか。」
受理台が110番に出たのを見た最上は、隣りにいる総合司令官にその受理情報を表示させるよう命じた。
受理台で応答している通話の内容やタブレット端末に速記される情報が最上の前の画面にも表示された。
「事件っていうか…。」
「何でしょうか。」
「藤堂と会いました。」
「え?藤堂?」
最上の顔つきが変わった。
「本部長。まさか藤堂って…。」
「司令官。無線指令を止めてくれ。」
「え?」
「いいから。」
I県警では受理台で受け取った110番通報は、その後方に位置する無線司令官が共有し、通報者とのやり取りをしている間に現場へ指示を出す。最上はこの一連の行動を止めるよう、総合司令官に指示を出したのである。
「いつですか。」
「日曜の夕方です。」
「どこで?」
「南町。」
受理台は通報者のGPSデータを利用し、彼がいまどこにいるかを瞬時に把握した。通報者の位置情報が総合指令台に送られてきた。
受理台は更に尋ねる。
「具体的にどこで藤堂とあったんですか。」
「金沢銀行の職員駐車場です。」
GPSの地図を拡大すると発信者はいまその場所にいるようである。
「どのように接触をしてきたんですか。」
「全身黒ずくめの胡散臭いあんちゃんが自分の車の側におって、声をかけてきました。」
「どのように。」
「久美子は元気か。今度は一色は居ない。」
受理台のやり取りを聞いていた最上と総合司令官、そして無線司令官が息を呑んだ
「本部長…。一色って…。」
最上は黙って受理台のやりとりに耳を傾けている。
「え?あなたは藤堂と面識があるんですか。」
「ありません。久美子は私の娘です。」
「久美子さんと藤堂はどういった関係なんですか。」
「藤堂はかつて久美子をレイプした男です。その男が父である俺の前に現れて脅しました。」
「…何て。」
「変な動きをするんじゃない。俺がお前の前に現れたことは誰にも言うな。警察にも。もしも警察に通報したのが分かったら再び久美子を犯す。」
この通報に通信指令室は凍りついた。
「本部長。無線指令を直ちに出さなくては!通報者と久美子の安全が!」
「待て。」
「何で!」
「待てというのが分からんのか。」
最上は彼の方を見ない。
「くそっ!」
司令官は机を思いっきり叩いた。
「娘さんはどちらですか。」
「自宅です。」
「住所は。」
「金沢市額賀町3-29。」
「本部長。」
「待てといってるだろう。」
行動を促す司令官を再度最上は制止した。
「現在、所轄署員を現場に急行させています。あなたはその場に居て下さい。娘さんがいるところにも署員がいま向かっています。」
「ありがとうございます。お願いします。藤堂をなんとかして下さい。」
「捜査のご協力ありがとうございました。」
110番のやり取りは終わった。
「司令官。」
「はい。」
「この通報について口外無用だよ。」
「え?」
「この件については俺が預かるよ。君たちは暫くの間胸のうちに留めていてくれ。」
そう言うと最上は立ち上がった。
「無線司令官。北署に繋いでくれ。」

「はぁ藤堂を見た?」
「はい。」
「え?ほんねんに何でおまえ手ぶらねんて。」
「ちょっと事情があったんです。」
「事情?何言っとっんじゃ。捜査本部ほっぽり出してそこら辺で油売って、ホシ見たっちゅうげんに連絡もなしで手ぶらでご帰還か?」
本部の人間は岡田に凄んだ。
「すいません。」
素直に謝る岡田を前に、本部の人間は頭を抱えるしかなかった。
「おい。所轄は何やっとらんや!」
この怒鳴り声に捜査本部の中は静まり返った。
「…捜査本部長の署長さんも、その下の捜査一課長さんもてんでバラバラに好き放題に動いて現場ほったらかしかい。」
「まさか署長が不在とは。」
またも本部の人間は頭を抱えた。
その時である。若手捜査員が岡田のもとにやってきた。
「課長。本部からです。」
「あ?」
「課長と直接話しをしたいとのことです。別室にテレビ電話がつながっています。」
「ほらほら、所轄のグダグダっぷりに業を煮やして刑事部すっ飛ばして本部長直々のお叱りや。」
「まじですか…。」
岡田はすごすごと若手に連れられて別室へと向かった。
別室のモニターには本部長席に座る最上の姿が映し出されていた。岡田はその前に直立不動であった。
「まあ座りなさい。」
「いえ。このままで結構です。」
「そうか。じゃあそのままでいい。」
「はい。」
「岡田課長だったね。」
「はい。」
「さっき通報が入ったよ。」
「え?何のですか。」
「藤堂と会ったって。」
「え?通報者は?」
「山県有恒。山県久美子の父親だ。」
「…。」
「警察に言うなって藤堂に言われて、いままで黙ってたそうだ。その間、君が山県久美子の警護をしてたんだろ。」
「え…。」
「ご苦労さん。」
「本部長はご存知で…。」
「どうだい?捜査本部の様子は?」
「あの…。」
「若林くんはまだ油を売ってるのかい?」
「え?」
「やれやれ。名を挙げる折角の機会をお膳立てしてあげたのに、この非常事態の時に離席が目立つってのは困るね。」
「…ええ。」
「岡田くん。君が捜査本部長として指揮を執ってくれ。」
「は?」
「一般市民からホシの情報が通報されたんだ、可及的に速やかに検挙しなきゃいけない。その時に管理者不在だと現場指揮なんか執れんだろう。」
「あの…。」
「しかし安易なキンパイはやめておくんだ。」
「え?と言いますと?」
「どこにイヌがいるか分からないからね。」
「え?」
「発生署配備に留めて、とりあえず藤堂の行方を追ってくれたまえ。」
「あ…はい。」
「くれぐれも内密にな。」
「内密…ですか?」
「タイミングを見てこっちで君に指示を出すから、君は所轄の手綱をちゃんと引っ張っておくんだ。」
岡田は最上のいうことがさっぱり理解できなかった。通報があったというのに現場は目立った動きをするなというのである。
「いいかい。失敗できないからね。」
こう言って最上は通信を遮断した。
「…なんねんて…これ…。」
状況が全く飲み込めない岡田はその場でしばらく立ち尽くすしかなかった。

携帯電話が鳴る音
北陸新聞テレビの報道フロアでパソコンを眺めていた黒田の携帯に着信が入った。
「あーどうもお疲れ様です。こんな時間にどうしました?…え?今ですか?…いまはまだ会社に居ます。ええ。はい…。あ、ちょっと待って下さい。いま場所変えますんで。」
そう言って黒田は通話口を手で抑えて、真っ暗な会社内の喫茶店に移動した。
「で、なんですか?片倉さん。」
「お前、インターネットによる民主的な報道っちゅうもんをまだ信じとるか?」
「え?」
「いいから答えてくれ。」
「当り前です。」
「…そうか。じゃあとくダネが手に入ったら電波に乗せんと、今まで同様「ほんまごと」に掲載するか。」
「黒田さん。お先でーす。」
黒田のに向かって手を降って三波が退社して行ったのを見届けた黒田は深呼吸をした。
「当り前でしょ。」
「…そうか。」
「どうしたんですか。ネタですか。」
「ああ。」
「藤堂からみのことですか。それとも熨子山事件に関係することですか。」
「…全部や。」
「え?」
「お前、今から俺が言うネタをベースに直ちに記事にしてブログにアップできるか。」
「え?」
「できるなら俺が知っとること全部お前に教える。」
突然の申し出に黒田は戸惑った。
「それってネタ元の情報をそのまま垂れ流せってことですか?」
「ああ。」
ありえない。いくら信頼できる人間からのネタといっても精査無しでそのまま記事にするわけにはいかない。
「俺は黒田潔と話をしとるんや。北陸新聞テレビの黒田と話しとるわけじゃない。」
「う…。」
「いまお前の頭には会社員、黒田潔として保身がよぎった。あまりにでしゃばった行動に出ると、何かの拍子で会社から目をつけられるかもしれん。そうしたら干されるどころか、会社にすらおれんくなるって。」
心のなかを見透かされた黒田は何も言えない。
「けっ…結局オマエはインターネット上の自由な報道ってカッコいいこと言っときながら、ただネット論壇で名前挙げて有名になりたいってだけのスケベな奴やったってだけか。会社っていう後立がないと何にもできん口だけの男やったんや。」
いつになく毒を吐く片倉に黒田は流石に頭にきた。
「悪いか!」
「悪くない。」
「え…。」
「公共の利益だけを考えて行動できる高潔な人間なんざ、金と時間の余裕が腐るほどあるってやつくらいや。」
「あ…ええ…。」
「金と時間に余裕がある人間ってのはいわゆる成功者って奴や。なんで成功なんてもんを勝ち得るのか。そう賭けに勝ったからや。」
「賭け?」
「ああ。ここ一番の大勝負でリスクとった結果、成功を手に入れた。」
「リスク…。」
「リスクをとるから得るものが大きい。ただそれだけのこと。リスクもとらんとうまい目に会おうって言う魂胆は俺は関心せんな。」
「片倉さんはここで俺にリスクをとれと。」
「ああ。」
黒田は唾を飲み込んだ。
「俺も現にいま、お前にこう持ちかけとる時点で相当のリスクをとっとる。お前が言うようにインターネットの世界が民主的な言論空間やっていうんなら、ナマのネタをそのままそこに上げて、市場原理でネタの価値を決めてもらおうじゃねぇか。」
「情報の価値を市場が決める…。」
「まぁ投資は自己責任で。」
「考えさせてください。」
「ダメや。」
「なんで。」
「時間が無い。お前の対応の速さがすべてを左右する。お前ができんがやったら俺はこの賭けからさっさと降りる。」
「え…。」
「どうなんや。」
「…直ちに記事にするってどれくらいのスピード感ですか。」
「俺がここでお前に言った側から記事になるくらいの感じ。」
「え…そんな無茶な...。」
「校正なんか必要ない。お前の思うままに書け。それならできるやろ。」
「…なんでそんなに…。」
「やがてわかる。」
黒田はこの片倉の発言の裏になにかとてつもなく大きなものが動いていることを察知した。
「どうや。」
「…やりましょう。」
「よし。」
「直ぐにスタンバります。折り返し連絡します。」
「ああ。頼むぞ。」
電話を切った黒田は自席に戻ってノートパソコンを抱えた。そしてヘッドセットを装着し、報道部の別室に姿を消した。
posted by 闇と鮒 at 00:00| Comment(0) | ポッドキャスト | 更新情報をチェックする

2016年06月20日

99 第九十六話



「一色さんがお父さんの上司やったってわかったんは、熨子山事件が起こってからの話。あの事件が起こってあの人が一色さんに関わるなって言っとったんは当たっとったんやってわかった。」
「…そうやったんや。」
「周、あの事件起こった時、一色さんは特に関係ないって無視したやろ。」
「おう。」
「んで冷たいとか皆に言われたがいね。」
「うん。京子ちゃんにも言われた。」
「うん…。あの時はごめん…。今になって何なんやけど。この前西田先生が言っとったみたいに、周のあの時の判断は正しかったと思うの。」
「じゃあなんで、京子ちゃんおれの事責めたん。」
「何か…正直、一色さんってそんなに悪いことをする人には思えんかってん。ただそんだけねん。」
「え?」
「稽古つけてもらって、周と一緒にあの人の話聞いたがいね。あの時のあの人の話し方とか雰囲気とか思い出しても、そんなことするような人にはどうしても思えんかってん。」
「でも、京子ちゃんはお父さんの忠告は正しかったって思ってんろ。」
「うん。でもお父さんが言っとった関わるなってことは、何かそういう意味で関わるなって言っとったんじゃないかって思ってん。」
「は?」
「ほら、もともとお父さんはどうしても関わるって言うんなら、全部引き受けろっていった訳やがいね。」
「あ、おう。」
「絶対に私に危険が及ぶっていうんなら、何が何でも一色さんと私を引き離すはず。けどあの人はそこまでせんかった。」
「…そうやね。」
「結局あの事件って一色さんはなんにも悪くなかってんろ。」
「確かに。」
「事件が起こって一色さんと関わるなって言っとった張本人のお父さんは結果的に一色さんのすべてを引き受けた。事件の解決をすることで落とし所をつけた。」
「そうとも言えるね。」
「お父さんは熨子山事件の捜査をする時に一色さんにどんな感情を持っとって、何考えとったんやろう。それはあの事件以降、いっつも私の心の何処かにあった。そんな中、ひょんな事で北高で西田先生から一色さんの手紙を貰った。」
京子は一色の手紙を取り出した。そしてそれに目を落としながら長文であるその中の一節を読み出した。

”自分が死んでしばらくは平穏な時間が過ぎると思います。しかし2・3年ほどでおそらく何かが起こるでしょう。何かが起こる時に君たちは岩崎香織という美しい女性と接点を何かの形で持つはずです。彼女はコミュというサークルのようなものを運営する側に立って、一般の人たちを組織しています。
先に君たち2人だけに教えておきます。彼女は岩崎香織ではありません。岩崎香織とは世を忍ぶ仮の名前。本名は下間麗という女性です。彼女の父親は下間芳夫。そう、君たちがおそらく一緒に入学を果たしているであろう大学の教員です。
彼女が何故、そのような偽名を使って生きているのか。その辺りの説明はここでは割愛します。ただ、これだけは言えます。彼女にはそうしないといけない事情がある。彼女自身の意志に関わらず岩崎香織として生きていかなければならない事情があるんです。
そこでお願いがあります。君たちに彼女をコミュから遠ざけて欲しいのです。
細かい理由はここでは書ききれません。ですが、それを成すことで彼女は背負わされている重い十字架から解放されます。時間をかけて岩崎香織としてでは無く、下間麗としての人生を歩み直すことができます。
君たちだけではなく、いろんな人達が自分の力の限りを尽くして、いまそれを実行しているでしょう。”

「警察やめたって言って…お父さん、ひょっとしてこのことで今頑張っとるんじゃないかなって…。」
「…まだ一色さんのすべてを引き受けとるってか…。」
「うん…。これ引き受けることで私もお父さんが考えとることが分かるような気がしてん。」
「京子ちゃん…。」
「別に私、お母さんよりもお父さんの方が好きとかじゃないげんよ。お父さんに肩入れしとるわけじゃないげんよ。ただ、よく考えたら私、物心ついた時からお父さんのこと何にも知らんかった。ほやからせめてあの人のことをある程度知ってから、2人が別れるなり何なりすればいいと思うだけねん…。」
京子の瞳に再び涙が浮かび始めていた。
「本当は…別れてほしくなんか…ない…。」
「京子ちゃん…。」
「私だってひとりでこんな訳の分からんこと遺言みたいに押し付けられて嫌やわいね…。ほんで岩崎さんを騙して何とかするってのも嫌や。でも、なんか…周とならできるような気がしてん。」
相馬は再び彼女を抱きしめた。彼女は彼の胸の中で子供のように泣きじゃくった。

アイドリングをして停車している車の助手席で、煙草に火を付けてそれを勢い良く吹き出した。
携帯電話目を落とすと時刻は19時50分を指している。画面には不在着信の通知があったが、彼はそれを削除することで無視をし、前方に見える明かりが灯された一軒の家をしばらく見つめた。
ランニング姿の男が前方から走ってきた。男はそのままこちらの方に向かって走ってくる。彼はそれには関心を示さずにそのまま家の様子を伺っている。
「何やってるんですか。」
気が付くとランニングの男が運転席側に立っていた。
「ちょっと様子を見たくってな。」
「こっちはスタンバイOKです。」
「そうか。」
「相馬の家にも何名か張り付かせています。」
「…理事官に礼を言わんとな。」
「じゃあ。」
男はそのまま走り去った。
「さてと…。あいつにもひと働きしてもらうかな…。」
そう言ってゆっくりとアクセルを踏み込み、彼もまたその場から走り去っていった。

ベッドの上に力なく座り、何もない壁をただ呆然と見つめる岩崎の姿があった。

「だから明日のコミュをもってお前は脱会しろ。この件は俺が黙っておく。」
「え?脱会?」
「ああ。」
「脱会してどうすればいいの私?」
「知らない。勝手に生きろ。」
「え?兄さんも父さんもこれで縁が切れちゃうの?」
「その俺の呼び方はもうやめてくれ。」84
「私ひとりで…どうやって生きていけっていうの…。」

ベッドの傍らには1枚の写真が落ちている。そこには車いすに座る母の下間志乃を囲むように芳夫、悠里そして幼いころの彼女が写っていた。

「お前が母さんのことを心配する気持ちは分かる。俺もそうだ。だが今回の任務が完了したら俺らがまたあの国に帰って昔のような生活ができる保証はない。」
「なんで?だってお父さんそう言ってたじゃない。そう言ってお父さん私達をツヴァイスタンから日本に連れてきたんでしょ。」
「俺だって独自のネットワークがある。そこから日々情報を入れている。だが実際のところ母さんの容体はおろか、その生存も確認できていない。」84

ー10年前ー
夜陰に乗じて一艘のボートが日本海岸に着岸した。
下間芳夫が砂浜に降りると、その後に麗が足元がおぼつかない様子で続いた。
まだ幼い麗は何も言わずに芳夫の後を歩く。
彼は岩陰に沿うように砂浜を歩き、夜釣りをしている男と接触した。
「来い。」
芳夫と麗は釣り道具を片付けた男に連れられて、彼のSUVに乗り込んだ。男はエンジンを掛けて車を発信させた。
「麗。ここがお前の故郷の日本だ。」
「Я не знаю, хорошо темно」
「やめなさい。ここではその言葉は使うんじゃない。」
「…暗くてよく分からない。」
「もう数時間すれば夜も明ける。」
「兄さんは?」
「悠里は東京だ。麗、お前はこれから悠里と生活をするんだ。」
「お父さんは?」
「お父さんは石川で仕事をしている。時期が来たら悠里と一緒にここに来い。」
「時期って?」
「お前は岩崎香織って小学6年生だ。」
「え?小学6年生って、私14なんだけど。」
「いいからお前はここではその年令なんだ。お前はこの春から悠里と生活して、石川大学の大学生になるんだ。大学生になればお父さんとも時々会える。」
「え?6年も先の話?」
「いや、10年後だ。」
「え?意味分かんない。日本は6・3・3・4制でしょ。私が大学生になる時は6年後でしょ。」
「お前は学校には行かない。悠里から直接勉強を教えてもらうんだ。お前が及第点を取れるようになったら、石川大学へ入学できるようにする。」
「どういうこと?そんなのんびりしてたらお母さんの身体悪くなっちゃうよ。」
「お前には専門的な分野の勉強をマスターしてもらわないといけないから、それぐらいの余裕が必要なんだよ。」
「なに…それ…。」
「いいから。お母さんは心配ない。偉い人がちゃんと面倒見てくれてる。それにその偉い人が定期的にお父さんにお母さんの容体を知らせてくれている。麗。お前はお母さんの心配よりも、自分がやらなきゃいけないことをちゃんとやることだけを考えなさい。」
麗は黙った。
「お前がやらなきゃいけないことはわかってるな?」
彼女は頷いた。
「よし。いい子だ。」
「私がその石川大学に行けば、お母さんの身体はよくなるの?」
麗の質問に芳夫は言葉をつまらせた。
「…そうだ。」
「分かったわ。頑張る。」
「いい子だ。麗。」
車はそのまま金沢方面に向かい、北陸自動車道に乗った。途中、有磯海のパーキングエリアで2人を待っていた車に乗り換え、上信越自動車道を経由してそのまま東京に入った。
「着いたぞ。」
芳夫がこう言うと後部座席で眠っていた麗が目を覚ました。
窓から見える居並ぶビルによって削り取られた空が極端に狭いことに、麗は驚いた。
「窮屈だろう。」
「…うん。」
「これが東京ってところだ。人間が住むところじゃない。」
「そうね。」
向こう側からスーツを着た若い男がこちらに向かってやってきた。
「ほら、お前の兄さんの悠里だよ。」
「え?あんな人だったっけ?」
「ははは。お前、兄さんを忘れてしまったのか?」
「だって、兄さんと会うの5年ぶりだもん。」
「あーそうか。そうだったね。麗がまだこんなに小さい時だったか。」
そういって芳夫は当時の麗の背丈を手で表現した。
「あの時はお前は9歳。悠里は18歳だったか。」
「お父さんの頭もそんなに禿げてなかったよ。」
「うるさい。そんなことはいい。」
ドアが開けられて悠里が車に乗り込んだ。
「久しぶりだね。麗。元気だった?」
「うん…。」
「大変だったね。真っ暗な海渡って来たんだ。いい子にしてたかい?」
「悠里。麗は肝っ玉が座っている。あの暗闇の中でこの子は空に広がる満天の星空だけを眺めていた。」
「へぇ。すごいね。普通の人は闇が怖くって泣き叫ぶんだけど。」
「この子はいいもの持っている。」
「本当ですね。」
麗は悠里から顔をそむけている。
「何だよ。麗。」
「悠里。恥ずかしんだよ。」
「人見知り?」
「多分な。」
悠里は口元を緩めた。
「麗。お母さんは?」
「え?」
「お母さんは元気かい?」
「…あ…。」
「どうなんだい?」
麗はコクリと頷いた。
「そうか…良かった。」
「でもベッドで寝たまんまだけど。」
「あ…やっぱりそうなんだ。」
「良くはなっていないの。」
「そうか…。」
「近々、あっちの方に出張で行くらしいな。」
芳夫が悠里に声をかけた。
「ええ。1ヶ月後、ロシアの方へ出張がありますからのときに足を伸ばしてツヴァイスタンまで行ってきます。」
「そうか。」
「その時、俺も母さんの様子見てくる。その間は麗。お前、ひとりでここでちゃんと生活するんだぞ。」
悠里は麗の小さな頭を撫でた。

過去の情景に思いを馳せていた彼女であったが。携帯電話の音によってそれは消えた。
力なくそれを手にした彼女は、発信元の表示を見て身体をこわばらせた。

「大学に入ってから現在に至るまでの長谷部の被害者は33名。こいつは酷いな…。悪魔としか言えない…。」84

「長谷部…。」

「好きになった女の人が元気を失くしとる。そんなの目の前にして放っておけっかいや。」70

「あれ…いろんな人に言ってたんだ…。」
着信が途切れた。彼女はベッドに顔を埋めた。

「麗。これだけは言っておく。お前が今まで生きてきた人生は他人のための人生を歩むだけの受動的な人生だ。いまお前は自分のための人生を歩む重要な岐路にある。岩崎香織ではなく下間麗としてな。」84

麗の動きが止まった。
「下間麗として?」
顔を上げた麗は窓に映りこんだ自分の姿を見つめた。

「いま俺は兄としてできることの精一杯をやっている。頼むから俺の言うとおりにしろ。」84
「明日のコミュには来てくれ。俺の方でうまくやる。お前はそれに合わせてうまく立ち振る舞え。」84

「兄さん…。何ひとりで背負っちゃってんのよ…。」
そう呟いた彼女の手は携帯電話を握っていた。
posted by 闇と鮒 at 00:00| Comment(0) | ポッドキャスト | 更新情報をチェックする

2016年06月15日

98.1 【お便り紹介】



今回もハチノホヤさんからのお便りを紹介します。
4月と6月に頂いたお便りをまとめて紹介します。

闇と鮒では皆さまのお便りを募集しています。
お気軽にウェブサイトからご投稿下さい。
よろしくお願いします。
posted by 闇と鮒 at 21:47| Comment(0) | ポッドキャスト | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

98 第九十五話



正確に言えばものの3分程度の間だ。しかし女の涙というものを経験したことがない彼にとっては、京子の顔が自分の胸の内にあるという時間は途方も無く長いものに感じられた。
「お父さんに近づけると思った...。」
相馬の胸に顔を埋めたまま、彼女は消え入るような声を発した。
「え?」
「お父さんが何を考えとるんか、少しでも分かればいいと思って引き受けてん...。」
「え?何のことけ?」
「一色さんの手紙の件。」
ごめんと言って彼女は相馬の手を解き、テーブルに置かれていたティッシュを何枚か引き抜いて、それで自分の目の辺りを拭った。
ため息を付き、天井を見つめて気持ちを落ち着かせたのか、彼女は再び相馬と向い合って座った。
「…どういうことけ。」
「ウチ、お父さんもお母さんもダメねん。」
「え…。」
「お母さん、正直お父さんに愛想つかしとれん。」
なるほどそういうことかと京子の母がこの時間に家にいないことが妙に腑に落ちた。反面、なんとも気まずい気持ちが彼の心を覆う。
「だって嘘ついとるげんもん…。」
「嘘?」
「うん。」
「京子ちゃんのお父さんが?」
京子は頷いた。
「あの人、警察辞めとらんげんわ。」
「え...なんでそんなこと言えらん…。」
「ほんなもん分かるわいね。いくら商社勤めって言ったって、こんなに家空けて全国各地で営業なんかせんわいね。」
「でも行商みたいに全国行脚する商売だってあるがいね。」
「あの人は警察のOBがおる会社に行ってんよ。警察関係者が何人も居る会社がそんな営業会社って考えにくくない?」
「まぁ…。」
京子の言うことはもっともだ。京子の父は営業とは無縁の公務員、とりわけ警察官である。大学3年の娘を抱えるような年齢にも関わらず、今までのキャリアを捨て、ある日突然行商に近い営業会社に転職するだろうか。確かに普通に考えれば不自然だ。
「私、1回あの人の会社に行ってみてん。」
「うそやろ…。」
「あの人のスーツのポケットに名刺入っとったし、その住所調べて実際に行ってみてん。ほしたらただのマンションやってん。」
「マジで。」
「うん。んでネットで間取り調べたら、どの部屋も1LDKか2DKの狭い部屋ばっかり。あんなところに何人も従業員おる会社なんか考えにくいわ。」
「…そうやね。」
相馬は彼女の行動力に唖然とした。
「ほやし多分あの人、まだ警察やと思えん。私らを欺いてまでもせんといかん仕事があったんやと思えん。」
「まぁ…俺は警察の仕事とかってさっぱり分からんから、何とも言えんけど…。」
「仕事が仕事やから分かれん。多少の嘘つくんは。ただ…ね…。こんなに長い間、騙されとったって分かって正直がっくりきてん。」
「じゃあいままではどうやったん?お父さんは。」
「今までは家空ける日が多い時は、仕事の関係でどうしても帰れんとか、一応私らに報告入れてくれとってん。」
「ふうん。一応嘘はついとらんかったってわけか。」
「警察辞めてから普通の生活が送れるとかあの人喜んどってんに、それはつかの間のこと。今の会社に勤めだしてから出張出張。」
「そうなんけ。」
「ほんで出張も勤務先の会社の存在も全部嘘やろ。そんなこと分かってしまって、あの人のことどうやって信じればいいっていうがん?」
まるで自分が責められているように受け止められた相馬は、ただ黙るしかなかった。
「『お父さんだって辛いげんよ。好きで嘘ついとるわけじゃないげんよ。』とかってお母さんは頻りにあの人のこと私に弁護するけど、ほんなん形だけやわ。」
「え?なんで?」
「新車買ったこと口実にして友達と一緒にドライブとかって言って、本当のところ男の人と会っとるもん。」
「え…。」
「今日だって私に出かけるとか何も言っとらんし、ほんで携帯に電話しても繋がらんし。」
「それ…って…本当なんけ。」
「本当やわいね。私見たことあるもん。変なメガネがウチに時々来とるの。」
相馬は絶句した。
「いい歳こいて若めの男に熱上げとるとこなんか、見とれんよ。」
「京子ちゃん…。」
なるほど。先ほど京子が母の帰りがわからないといったのは、わかりたくないという願望が篭ってのものだったのか。
「ほんであー住みにくいわ、この家…みんな嘘つきやわって思っとった時に、この間の北高やってん。」
「あ…おう。」
このまま片倉家の家庭の事情を吐露されても、自分には受け止めきれるだろうか。そう不安を感じつつも京子の言に耳を傾けていた相馬は、ここでの話題の転換に内心ホッとした。
「一色さんからの手紙って西田先生から貰ったとき、正直わたしすっごい面倒くさかってん。」
「え?だってあの時京子ちゃんのほうが乗り気やったがいね。」
京子は頭をふる。
「ううん。はじめは何なんこの展開って思った。」
「じゃあなんで?」
「なんかふと思い出してん。そう言えばあの人、時々一色さんのこと家でこぼしとったなぁって思って。」
「え?どういうこと。」
「あの人がまだ警察辞める前ねんけど…。」
そう言って京子は当時を振り返り始めた。

ー熨子山事件発生の半年前ー
「ただいま。」
高校から帰宅した京子は玄関で靴を脱ぎ、そのまま階段を登って自分の部屋に向かった。
「京子。」
ジャージ姿の片倉が呼んだため、彼女は途中で足を止めて振り返った。
「なに?」
「お前な、一応帰ったら家族に顔見せれま。」
「あーおったんや。」
「おったんやじゃない。帰ってきたら悪いんか。靴もちゃんと揃えなさい。」
「はいはい。」
「はいは一回でいい。」
「はい。ごめんなさい。」
京子は片倉にペコリと頭を下げた。
「よし。ちょっといいか。」
片倉はリビングの戸を開けて京子を中に通そうとした。
「え?何ぃね。」
「お前に聞きたいことがあるんや。」
「えーシャワー入りたい。」
「ちょっとのことや。いいがいやんなもん。」
「稽古で汗臭いよ。べっとべとやよ。」
「あ…じゃあその後でいいから。」
シャワーから上がり、濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら京子はリビングにやってきた。母はキッチンに立ち夕飯の支度をしている。
「んで何けお父さん?」
新聞紙を広げていた片倉はそれを畳んだ。
「あぁ京子、一色って奴知っとるか。」
「一色?」
「おう。京子のとこの部活の先輩や。結構むかしの人間やけど。」
「あー知っとるわいね。」
「おう、どう知っとる。」
「ウチら剣道部の歴史の中で唯一県体で団体戦で準優勝の成績収めたときの部長や。」
「あ、ほうか。」
「どうしたん。」
冷蔵庫からアイス棒を取り出してそれを咥えながら京子は片倉を見つめた。
「京子はその一色と面識あるんか。」
「うん。」
「え?いつ?」
「え?ほんのつい最近。」
「つい最近って?」
「先週。」
「先週?どういうきっかけで。」
「…なんか久しぶりに稽古したくなったからって言って、防具持ってウチの学校まできて稽古つけに来てくれてん。」
「稽古?」
「うん。」
「で。」
「でって…。随分ご無沙汰やって言って、正直体が動くか分からんけどって言っときながら、実際稽古したら私らこてんぱんにやられてん。」
「ほんで。」
「良い動きしとるからその調子で頑張ってって言われた。」
「で。」
「え…ほんでこれやったほうがもっと伸びるよってメニューくれた。」
「なんやそのメニューって。」
「かかり稽古と囲碁の本。」
「は?何?かかりはわかるけど、囲碁?」
「うん…。」
「なんでや。」
「なんでって…なんかお父さんに取り調べされとるみたい…。」
「あ…すまん…。」
ビールグラスをテーブルに置いた片倉はため息をついた。
「何?どうしたん?」
「いや…なんでもない…。」
「なんでもないわけないがいね。第一なんでお父さん、一色さんの事知っとらん?」
「え?いや…別に…。ちょっとな。」
「なんでそんなにガッパになってあの人のこと聞くん?まさか…あの人のこと捜査しとるとか…。」
「いや、そんなんじゃない。」
「じゃあどんなん?」
片倉はジャージのポケットからハンカチを取り出して、それをテーブルの上においた。
「あ、それ私がお父さんに上げたハンカチやがいね。」
「おう。これアカフジってブランドやろ。」
「うん。」
「イタリアのブランドで鞄とか財布とかの小物中心に結構人気ある。お前の財布もここのやつや。」
「へぇ勉強したんや。」
「勉強じゃないって、その一色が俺に教えてくれたんや。」
「え?何?一色さんってお父さんの知り合いとか?」
「まぁ…そんなところや。最近ときどき顔合わせるようになったんや。」
「えーうそー!?」
「んで、このハンカチは娘から貰ったから正直そんなブランドのこととか分からんわっていったら、その娘さんってまさか京子とかって名前の子かって聞いてきた。」
「え?」
「この間、久しぶりに母校で剣道の稽古をやった時に垂れに片倉って書かれた女の子がおって、その子もアカフジの財布持って自販機で飲み物買っとったのを覚えとってってな。」
「うそ…一色さん。私のこと覚えてくれとったんや。ってか…すっごい偶然…。」
この時京子の頬に赤みが刺したのを片倉は見逃さなかった。
「何やお前。」
彼は怪訝な顔で京子を見た。
「ねぇねぇお父さん。一色さんって何しとる人なん?」
「あ?」
「あの人確か東一行っとれん。頭すっごいいいげん。」
「知らんわいや。」
「剣道も強いし頭もいいってチートすぎんけ。」
「は?チート?なんやそれ。知らん。興味ない。」
「何でぇね。私ら北高剣道部の中やったらレジェンドやよ。レジェンド。」
「けっ何がレジェンドや。」
「お父さんとあの人が偶然接点があるってのも何かのご縁やと思うよ。ご縁は大切にしといて損はせんよ。」
「だら。」
「え?」
「あいつはお前が思っとるほど良い奴じゃない。」
「何ぃね。なにヤキモチ焼いとらん。」
「なんで娘にヤキモチなんか焼くぃや。」
「じゃあ何なん。ほんなら何で一色さんのこと私に探ろうとしたん?最近知り合ったピッカピカの男が何でか分からんけど自分の娘と接点あって、妙にその娘のことを覚えとって、ひょっとしてその男が娘をたぶらかそうとしとるんじゃないかってヤバいって思ったんじゃないが?」
キッチンに立っている母はこの京子の物語にクスリと笑った。
「違う。」
「何なん急にぶすっとして。せっかくのご縁やがいね。」
「京子。」
片倉は改まって京子を見た。
「いいか。父親としてお前に忠告しておく。あの男とは関わるな。」
「なんで?」
「理由はここでは言えん。とにかくあの男とは距離を置け。」
忠告の意味を持つ片倉の鋭い眼差しに京子は口を噤んだ。
「ただ、どうしてもあいつと関わるというなら、すべてを引き受ける覚悟で行け。一色だけじゃない。世の中にはそういう人種の人間っておるんや。それだけを京子、お前に言いたかったんや。」
料理ができたようだ。料理をテーブルに並べるその時の母の口元には、何故か薄っすらと笑みが浮かんでいたように思える。
「京子。そういやお前、相馬さん家の周くんとはどうなんや。」
「え?」
「一色もいいかもしれんけど、お前身近にもっと良い奴居るんじゃないんか?」
「はぁ?周?」
「おう。同じ剣道部の部長同士。なんかうまい話でもないがか?」
「ちょ…ちょっと!! 変なこと言わんといてま!」
片倉の忠告にどこかぎこちない空気が漂った食卓であったが、このやり取りがこの場を和ませた。
posted by 闇と鮒 at 00:00| Comment(0) | ポッドキャスト | 更新情報をチェックする

2016年06月06日

97 第九十四話



「まだ帰ってこんがか。」
山県邸に張り付いたままの岡田は前方を確認し、車内でコンビニのおにぎりをかじった。
「うん?」
彼の車の前に一台のワンボックスカーが止まった。そのため岡田の視界は塞がれた。
「まずい。」
岡田はエンジンを掛け、場所を移動しようとした。
その時である。ガッシリとした体つきのスーツ姿の男が二人、ワンボックスカーから降りて岡田の側に駆け寄ってきた。
「何や…。」
ひとりが岡田の車の後ろに立ち、彼の車は瞬く間にワンボックスカーと人間によって前後を抑えられ、身動きがとれない状況になったのである。
「プロやな…。」
もう一人の男が運転席の窓を軽くノックした。よく見ると彼の左耳にイヤホンが装着されている。
岡田はゆっくりと窓を開けた。
「なんの用や。」
「交代です。」
「あん?」
「すぐに所轄に戻ってください。」
「はぁ?お前らなんねん。どこのモンや。」
「警視庁です。」
「警視庁?」
岡田は男の発言にタダ事ではない雰囲気を感じた。
「山県久美子の警護は我々でやります。つべこべ言わずにあなたはさっさと北署に戻って、捜査一課課長の職責を果たして下さい。」
「なにぃや。俺の身分は今宙ぶらりんなんや。」
「大丈夫です。」
「何が。」
「いいからさっさと戻れ。」
凄みのある声で岡田は一喝された。
「断る。俺はいまは警察官じゃない。」
ちっと舌打ちした男はしぶしぶポケットからあるものを取り出して岡田に見せた。
「あ…。」
「あんたの警察手帳だ。これでいいだろう。」
「え?なんで…?」
「戻ればわかる。」
そう言って男は腕時計に目を落とした。
「10分だ。10分で所轄に戻るんだ。話している暇はない。」
余計なことは話さない。極めて冷静に淡々とした様子だ。これに岡田は何かを感じ取ったようだ。
岡田が警察手帳を受け取ると、車の後方に立っていた男がどいた。それを見て岡田は一気にアクセルを踏み込んでバックし、その場から走り去った。
「聞いたとおり天邪鬼なところがあるな。」
「こじらせなくてよかったですね。」
「ああ。」
男はイヤホンマイクに口を近づけた。
「岡田。所轄に合流。10分で到着。」
「了解。」
「俺ら警視庁まで動かしてんだ。相当でかい山だぜこれは。」

自宅の冷蔵庫を開けるも食事にあてがうような食材はない。しぶしぶ相馬は家を出て近くのコンビニに向かった。
ーなんねん…。急に結婚記念旅行って…。いい歳こいて何盛り上がっとれんて…。
彼の脳裏に卓と尚美が手を繋いでキャイキャイしている様子が浮かんだ。
ーォ・・ォェッ・・・勘弁してくれま。
彼は乱雑に頭を掻いた。
ーヤメヤメ。ほっとけほっとけ…。ほんなことよりもメシや、メシ。
ポケットに手を突っ込んで相馬は地面を見ながら歩いた。
ー岩崎さん、ちゃんと長谷部とうまいことやってくれとるかなぁ。…やっぱりあの娘だけに投げるんじゃなくて、長谷部にもこっちからどうやどうやってせっついたほうがいいんかなぁ。でも何でおれがそんなにガッパになっとるんやって怪しまれると最悪やし…。
「あ…カレーの匂い。」
なんとも言えない魅力的な香りが相馬を誘った。彼はその発生源を鼻で探り、知らず知らずのうちに香りの出元の方へと進んでいた。
「あ…。」
彼の目の前に現れたのは明かりが灯る片倉邸であった。
「京子ちゃん家か…。あれ?」
相馬は気がついた。いつもこの時間に止まっている母親の新車がない。彼女はまだ帰っていないのか。踵を返して彼はコンビニがある方向とは逆の方へ進んだ。
暫くして小さな駐車場に出た。京子の父がここに車を止めていることを知っていた相馬は、それを確認しに来たようである。

「だっていつもおらんもん。しょうがないがいね。」
「まあ…。」13

彼女の言うとおり父親の車はこの時も無かった。
ふーっと息をついた相馬は再び片倉邸の前に向かった。
ー京子ちゃんのお母さんがこの時間に家留守にしとるって珍しいな…。
カレーの匂いに誘われて歩み、気が付くと彼は片倉邸の玄関の前に立っていた。
ーどっちもおらんがやったらちょっと顔出してみっか。
玄関のチャイムを鳴らすと足音が聞こえ、鍵が開けられた。
「おかえりー…って…あれ?」
「おう。」
「周?」
「おう。ちょっとコンビニ行く途中にいい匂いしたから顔出してみた。」
「あ…そう。」
「カレー?」
「うん。」
「お母さんは?」
「え?」
「家の前に車ないからどうしたんかなって思って。」
「あ…今日は遅くなるらしいげん。」
「あ…そう。」
「周って晩飯食べたん?」
「ううん。まだ。これから食べる。」
「家で?」
「あぁウチもなんか親ふたりとも急に旅行行くって言っておらんげん。んで晩飯どうすっかなってコンビニに行く途中カレーのいい匂いして、元を辿ったら京子ちゃん家やったってわけ。」
「あ、そうなん。じゃあウチで食べていきなよ。」
「え?いいが。」
「うん。だって私もひとりやもん。せっかくやしどうぞ。」
「あ…じゃあお言葉に甘えて。」
「って、始めっからご飯にありつこうって魂胆やってんろ。」
「…はい。そうです。」
「素直でよろしい。」
LDKに通された相馬はダイニングテーブルのところに座り、部屋を見回した。
「あんまり変わっとらんね。」
「え?」
「ほら昔、ここで坊主めくりしたことあったいね。」
「ああ、すっごい昔の話やね。小学校の時じゃない?」
「うん。2年か3年の時や。なんでか分からんけど坊さん引いたら、ぼーんさんぼーんさんって言ってケタケタ笑っとった。」
「あーなんかそうやったね。」
「今思えば何が面白かったんか分からんけど、とにかくあの時、友達も一緒になって爆笑しとった。」
「そうやね。」
「あの時と部屋の様子があんまり変わっとらんように思う。」
「そうかな~。結構模様替えとかしとるよ。」
「え?そうなん?」
「うん。周ぇ〜そんなにウチに来とらんがいね。」
「あ…うん。」
「適当なこと言わんといて。」
「あ…ごめん…。」
思い起こせばこの空間での京子との思い出は、さっき彼が言った幼少期のものだけだ。相馬も京子も無邪気にはしゃいでいた頃である。
相馬は夕飯の用意をする京子の後ろ姿を見つめた。彼の前にある京子の姿はその頃の彼女ではない。紛れも無く大人の女性の姿であった。キッチンに立ち手際よく食事を盛りつけ、洗い物を済ませる彼女の姿は、肩から腰、そして足先にかけて女性らしい見事なSの曲線を描いている。
「なに見とらん?」
「あ?え?」
「まぁいいわ。はいどうぞ。」
相馬の前にカレーが盛りつけられた皿が給仕された。
「いただきます。」
合掌を解いた相馬はそれを口に入れた。
「あちっ。」
この第一声に京子は肩をカクンと落とした。
「えーそれ?」
「だってあっちぃもん。」
「当り前やがいね。それじゃなくて。」
「あ…ウッメ。」
呆れ顔だった京子に笑みが浮かんだ。
「ウッメ。これ。たっだウッメ。」
「本当?」
「うん。京子ちゃんって料理うまいげんね。すっげこれ。ウッメ…。」
「何か…プリンの時とおんなじやね。」
「え?」
「ほら何か、もうちょっとうまく言えんが?」
「何ぃね。うまいもんは美味い。ほんでいいがいね。」
そう言ってカレーをむさぼり食う相馬の姿を、京子は微笑ましく見つめた。
「うん?どうしたん?」
「うん?え?あぁ…なんでもない。」
「あ、そう。」
「…なんか嬉しくって。」
「へ?」
スプーンを手にする京子の頬に赤みがさしていた。
「だって…今日はひとりでご飯やと思っとってんに、周が来てくれたから…。」
相馬の食事のスピードがとたんに落ちた。
「…そう。」
「うん…。」
「そういや、お母さんって何時に帰ってくらん?」
「わからんげん。」
京子はスプーンを置いてしまった。
「わからん?」
「うん…。」
相馬は動揺した。なぜならば目の前の京子の瞳にあふれんばかりの涙が湛えられていたからだ。
ことの重大さを察した彼は咄嗟に食事を止め、京子の側に寄った。
「いいよ。無理せんで。」
彼は彼女を引き寄せてそのまま抱きしめた。
彼女の涙が自分の胸を濡らすのを感じながら、相馬はただ黙っていた。
posted by 闇と鮒 at 00:00| Comment(0) | ポッドキャスト | 更新情報をチェックする